「学校場図絵」(保積稲天氏によって描かれた泉井学校)

8月9日(水)、昨日に続き、本日も「泉井学校」について掘り下げたいと思います。明治11年に建てられた「泉井学校」の写真は残されていませんが、保積稲天(ほずみとうてん1881~1973年)氏によって描かれた図絵が残されています。保積氏は、亀井村竹本で生まれ育ち、漫画界の基礎を築いた人物と言われています。図絵には保積氏自身が通っていた当時の学校の様子が風俗画として描き記されています。この図絵の原本は、巻物に仕立てられ、耐火書庫で厳重に保管されています。今は、亀井小学校の所蔵する貴重な宝物の一つとなっています。

 

(「学校場図絵」前書より一部抜粋)
明治初期は学校場と呼んでゐた これは明治二十七八年頃の村の学校風景である 場所は大字須江の黒石神社の西側で水路を前に断崖を後に南向に建てられて在った (中略) 明治二十二年これ等七ヶ村は亀井の荘であるところから亀井村と称し一ヶ村に合併となり学校名も亀井学校と改められた