2023年8月の記事一覧

記念樹の植栽

8月18日(金)、閉庁期間が終了し本日から通常になりました。閉庁期間中、鳩山町立図書館の郷土資料コーナーで調べものをしていると、亀井小のシンボル「赤松・黒松」の植栽についての資料を見つけました。大正4年(1915)に亀井小学校が発行した「学校新聞」の中で、「黒松」は改元記念樹として、「赤松」は、昭憲皇太后頌徳記念樹として紹介されていました。どちらの松も、大正天皇の御即位記念の一環として植栽されたものだということが資料からも確認できました。こういった由来も含めて、後世にしっかりと引き継いでいこうと強く感じました。

 

参考資料:『鳩山の近代』、2004、鳩山町史編集委員会

学校のシンボル「赤松・黒松」& 松の支柱の補修

学校のシンボル「赤松・黒松」は、校歌の2番にも歌われ、亀井小の子供たちに長く親しまれてきました。また、鳩山町の景観樹木1号にも指定され、地域の方々にも愛されている非常に大切な松です。古い写真資料にも登場するこの松ですが、いったいいつ植えられたものなのかがこれまで不明でした。しかし、今回、歴代校長の回顧録を調査する中で、今から111年前、大正天皇が御即位する時に植えられた記念樹だという記述が見つかりました。100年以上の長きにわたり、多くの人々の心に残り続ける「赤松・黒松」の偉大さを改めて感じています。

 

8月10日(木)午前中、専門業者の方に松の支柱の補修工事をしていただきました。松は、大きくなってくると、自らの重さに耐えきれず、倒れてしまうことがあります。先日も出雲市の日御碕神社の境内で、松の大木が倒れる衝撃映像が報道されていました。「赤松・黒松」に同じようなことが起こらないよう、厳重に保全管理をしています。台風の上陸前に補修が終了してホッとしました。

 

「学校場図絵」(保積稲天氏によって描かれた泉井学校)

8月9日(水)、昨日に続き、本日も「泉井学校」について掘り下げたいと思います。明治11年に建てられた「泉井学校」の写真は残されていませんが、保積稲天(ほずみとうてん1881~1973年)氏によって描かれた図絵が残されています。保積氏は、亀井村竹本で生まれ育ち、漫画界の基礎を築いた人物と言われています。図絵には保積氏自身が通っていた当時の学校の様子が風俗画として描き記されています。この図絵の原本は、巻物に仕立てられ、耐火書庫で厳重に保管されています。今は、亀井小学校の所蔵する貴重な宝物の一つとなっています。

 

(「学校場図絵」前書より一部抜粋)
明治初期は学校場と呼んでゐた これは明治二十七八年頃の村の学校風景である 場所は大字須江の黒石神社の西側で水路を前に断崖を後に南向に建てられて在った (中略) 明治二十二年これ等七ヶ村は亀井の荘であるところから亀井村と称し一ヶ村に合併となり学校名も亀井学校と改められた

泉井学校(明治7年2月創立)

8月8日(火)、本日は、泉井学校跡地(須江地区)に建てられた石碑を調査しました。泉井学校の創立した年が、亀井小学校開校150周年の起算年となっています。泉井学校は、明治7年に下泉井村金澤寺に開校し、明治9年に須江村長命寺に移ります。明治11年には、須江村石黒神社の西側に新校舎が建てられました。当時教員だった大岡育造氏が離村の際に、その建築費の一部を寄附したそうです。亀井小学校発祥の地ともいえる場所を訪れ、150年の歴史の重みを感じました。

  

(碑文より一部抜粋)
明治十一年多くの人々の浄財を得て当地に校舎が設立された。校名も明進学校、暢陽学校、亀井尋常小学校と改称されたが、熊井学校と合併して明治三十五年に亀井尋常高等小学校が設立されるまでの二十五年間ここが教育の中心地となっていた。

60年前の亀井小の様子

8月7日(月)、本日は、昭和38年度の「学校要覧」を使って、当時の亀井小の教育活動を振り返ってみました。現在と比べてみると、ずいぶん変わっていて面白いです。現在70歳前後の方が通っていた頃の学校の様子です。
※学校要覧は「開校150周年記念事業」のページに掲載しました。併せてご覧ください。

 

〇教育方針(児童)
→目指す児童像は不易なものが多いです。

〇学年別児童数
→当時は、全校児童362人、6年生だけでも66人、今年度の全校児童を超えています。
→2年生は、54人で1クラス。教室に入ったのでしょうか?

〇授業時間配当
→当時は、1・2年生に社会や理科の教科がありました。総合的な学習の時間や生活科、外国語はまだありません。
→土曜授業があったので、5・6年生は、週33時間も勉強していました。

〇クラブ活動年間指導計画
→当時のクラブの種類は、「文芸、音楽、科学、珠算、体育、美術、家庭」の7つ。
→活動内容は、日頃の各教科の学習に近いように思われます。

〇始終時刻計画(日課表)
→業間休みがなくて、掃除が放課後でした。
→冬場は、登校時刻が25分遅くなって、その分午前中は40分授業、休み時間も5分になっています。

〇月行事
→当時は、子供たちが積み立て貯金をしていました。
→給食費も月2回集金していました。

〇年間行事予定表
→検便や予防注射がありました。
→小運動会、運動会、班体育祭、村体育祭など、たくさん運動会がありました。
→6月と11月に農休が1週間あったようです。
→春と秋に2回遠足に行っています。
→臨海学校で海に泳ぎに行っていたようです。