学校ブログ
第3の松「赤松」
亀井小のシンボル「赤松・黒松」の他に、亀井小にはもう一本の「赤松」が植えられています。理科室前にひっそりと佇む「赤松」は、昭和58年(今から40年前)、現在の校舎が建てられた際に記念樹として植えられたものです。当時は、職員室前に植えられていましたが、校庭を使いやすくするために現在の場所に移植されました。樹齢はまだ若いですが、「赤松・黒松」の妹分とも言える「赤松」の存在も大切に受け継いでいきたいと思います。
記念樹の植栽
8月18日(金)、閉庁期間が終了し本日から通常になりました。閉庁期間中、鳩山町立図書館の郷土資料コーナーで調べものをしていると、亀井小のシンボル「赤松・黒松」の植栽についての資料を見つけました。大正4年(1915)に亀井小学校が発行した「学校新聞」の中で、「黒松」は改元記念樹として、「赤松」は、昭憲皇太后頌徳記念樹として紹介されていました。どちらの松も、大正天皇の御即位記念の一環として植栽されたものだということが資料からも確認できました。こういった由来も含めて、後世にしっかりと引き継いでいこうと強く感じました。
参考資料:『鳩山の近代』、2004、鳩山町史編集委員会
学校のシンボル「赤松・黒松」& 松の支柱の補修
学校のシンボル「赤松・黒松」は、校歌の2番にも歌われ、亀井小の子供たちに長く親しまれてきました。また、鳩山町の景観樹木1号にも指定され、地域の方々にも愛されている非常に大切な松です。古い写真資料にも登場するこの松ですが、いったいいつ植えられたものなのかがこれまで不明でした。しかし、今回、歴代校長の回顧録を調査する中で、今から111年前、大正天皇が御即位する時に植えられた記念樹だという記述が見つかりました。100年以上の長きにわたり、多くの人々の心に残り続ける「赤松・黒松」の偉大さを改めて感じています。
8月10日(木)午前中、専門業者の方に松の支柱の補修工事をしていただきました。松は、大きくなってくると、自らの重さに耐えきれず、倒れてしまうことがあります。先日も出雲市の日御碕神社の境内で、松の大木が倒れる衝撃映像が報道されていました。「赤松・黒松」に同じようなことが起こらないよう、厳重に保全管理をしています。台風の上陸前に補修が終了してホッとしました。
「学校場図絵」(保積稲天氏によって描かれた泉井学校)
8月9日(水)、昨日に続き、本日も「泉井学校」について掘り下げたいと思います。明治11年に建てられた「泉井学校」の写真は残されていませんが、保積稲天(ほずみとうてん1881~1973年)氏によって描かれた図絵が残されています。保積氏は、亀井村竹本で生まれ育ち、漫画界の基礎を築いた人物と言われています。図絵には保積氏自身が通っていた当時の学校の様子が風俗画として描き記されています。この図絵の原本は、巻物に仕立てられ、耐火書庫で厳重に保管されています。今は、亀井小学校の所蔵する貴重な宝物の一つとなっています。
(「学校場図絵」前書より一部抜粋) |
泉井学校(明治7年2月創立)
8月8日(火)、本日は、泉井学校跡地(須江地区)に建てられた石碑を調査しました。泉井学校の創立した年が、亀井小学校開校150周年の起算年となっています。泉井学校は、明治7年に下泉井村金澤寺に開校し、明治9年に須江村長命寺に移ります。明治11年には、須江村石黒神社の西側に新校舎が建てられました。当時教員だった大岡育造氏が離村の際に、その建築費の一部を寄附したそうです。亀井小学校発祥の地ともいえる場所を訪れ、150年の歴史の重みを感じました。
(碑文より一部抜粋) |
60年前の亀井小の様子
8月7日(月)、本日は、昭和38年度の「学校要覧」を使って、当時の亀井小の教育活動を振り返ってみました。現在と比べてみると、ずいぶん変わっていて面白いです。現在70歳前後の方が通っていた頃の学校の様子です。
※学校要覧は「開校150周年記念事業」のページに掲載しました。併せてご覧ください。
〇教育方針(児童)
→目指す児童像は不易なものが多いです。
〇学年別児童数
→当時は、全校児童362人、6年生だけでも66人、今年度の全校児童を超えています。
→2年生は、54人で1クラス。教室に入ったのでしょうか?
〇授業時間配当
→当時は、1・2年生に社会や理科の教科がありました。総合的な学習の時間や生活科、外国語はまだありません。
→土曜授業があったので、5・6年生は、週33時間も勉強していました。
〇クラブ活動年間指導計画
→当時のクラブの種類は、「文芸、音楽、科学、珠算、体育、美術、家庭」の7つ。
→活動内容は、日頃の各教科の学習に近いように思われます。
〇始終時刻計画(日課表)
→業間休みがなくて、掃除が放課後でした。
→冬場は、登校時刻が25分遅くなって、その分午前中は40分授業、休み時間も5分になっています。
〇月行事
→当時は、子供たちが積み立て貯金をしていました。
→給食費も月2回集金していました。
〇年間行事予定表
→検便や予防注射がありました。
→小運動会、運動会、班体育祭、村体育祭など、たくさん運動会がありました。
→6月と11月に農休が1週間あったようです。
→春と秋に2回遠足に行っています。
→臨海学校で海に泳ぎに行っていたようです。
納涼夏祭り
8月5日(土)、鳩山町の「納涼夏祭り」が4年ぶりに開催されました。非行防止パトロールの一貫として、今年初めて参加しましたが、小学生も中学生も挨拶やお礼のしっかりできる礼儀正しい子たちばかりでした。亀井小の卒業生からもたくさん声をかけられました。会場は大いに盛り上がっていましたが、特に締めの打ち上げ花火は圧巻でした。まるで花火大会に来たかのように、思わず感動で声を上げてしまいました。多くの人と夏の感動を共有できて、とても良い夜となりました。
亀井小の歴史的資料 & 熊井焼
8月4日(金)、開校150周年記念行事に向けて、耐火書庫や松風館に保管されている歴史的資料を整理しました。90年以上前のアルバムなど歴史的な写真もたくさん見つかりました。記念行事の際には、公開展示もしたいと思います。旧校舎の表札や校章、校訓の書かれた額など、現物資料もたくさん残されていました。校舎の移築や建て替えが繰り返されながらも、多くの歴史的資料が保管され続けてきたことをしっかりと受け止め、今後も大切に扱っていきたいと思います。
整理を進めていると、歴代の校長先生方が残された品々の中に、「熊井焼」の花瓶が見つかりました。熊井焼とは、江戸時代(1785年)に現鳩山町熊井で誕生し、昭和30年代まで続いていた焼き物です。椀、皿、急須、平鍋、徳利、花瓶など日用雑貨を中心に多くの焼き物が出土しています。昨年度は、鳩山町やときがわ町で展示会も開かれていました。貴重な焼き物なので、今は校長室に飾らせていただいています。
亀井の井戸
8月3日(木)、昨日、亀井六郎について調べていると、熊谷市に「亀井の井戸」と呼ばれる史跡があることがわかりました。気になったので学校帰りに立ち寄ってみると、田んぼや畑の広がる場所に史跡の表示がひっそりと立てられていました。枯れ草をかき分け、中に進むと石造りの小さな井戸を発見しました。縁に掘られた亀の字もうっすらとですが、確認できました。このような亀井の井戸の伝承は、他の地域にもあるようです。さらに、源頼朝や弘法大師、聖徳太子などにまつわる井戸や泉は全国いたる所にあります。これらの人物が水への信仰のシンボルとして崇められていたのだと思います。史跡を眺めながら、井戸に名を残す亀井六郎が、当時の人々にとって、崇めるべき大切な存在たったことを誇らしく感じました。
「亀井の井戸にまつわる伝承」 (参考:「熊谷デジタルミュージアム」、『熊谷の昔ばなし1-5』) |
亀井六郎重清
8月2日(水)、今日の亀井小は大きな動きがなく、平穏な一日でした。良い機会なので、「亀井六郎」について掘り下げてみました。亀井小の名称の由来となる「亀井六郎」は、源義経の四天王の一人とされ、歌舞伎の『勧進帳』の中にも登場する実在の人物です。『吾妻鏡』では、怒る頼朝に義経の起請文を届けた使者として亀井六郎の名が見られます。また、『義経記』では、弓矢の名手であったことや、義経最期の戦い「衣川の戦い」で奮戦した後、23歳で自害したことが伝えられています。これらの源平合戦が起こっていた当時、亀井六郎に与えられた比企郡内の領地が、亀井庄と呼ばれるようになったと考えられます。亀井六郎の出自は熊野の豪族とも伝えられていますが、諸説があり、その生涯は謎に包まれています。
「 ↓ 校長室に飾られている『勧進帳』の錦絵」
参考資料:『鳩山町史1 鳩山の歴史(上)』2006、鳩山町史編集委員会
『熊井毛呂神社史』2016、宗教法人毛呂神社